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室蘭本線 虻田駅→洞爺駅・北入江信号場


<主な変遷>  
1928(昭3)年9月 長輪線 静狩-伊達紋別間開通、虻田駅開設
1931(昭6)年4月 長輪線 → 室蘭本線
1945(昭20)年8月 北入江信号場開設
1948(昭23)年7月 北入江信号場廃止
1962(昭37)年11月 虻田駅 → 洞爺駅
1964(昭39)年9月 北入江信号場開設 (1948年廃止の信号場とは位置が異なる)
1986(昭61)年11月 北入江信号場廃止

1954 (昭29) 年 4月

<基本情報>
 所   管  札幌鉄道管理局
 貨 物 営 業  あり
 閉そく方式  通票閉そく式
  •  両方向の主本線に加えて副本線を設置した配線です。
  •  岩見沢方にある北海道工業(株)の専用線は1953(昭28)年現在の「専用線一覧」によると作業キロが 2.0kmとなっており、結構な距離がある線路だったことが分かります。
  •  遠方信号機は両方向共に電気式で、下りは腕木式、上りは色灯式になっています。

1981 (昭56) 年 5月

洞爺駅
<基本情報の変更>

 所   管  北海道総局-札幌鉄道管理局
 貨 物 営 業  なし
 閉そく方式  自動閉そく式
 北入江信号場
<基本情報>

 所   管  北海道総局-札幌鉄道管理局
 閉そく方式  自動閉そく式
 遠隔制御方式 RC
  •  洞爺駅では長万部方の複線化に伴い、1954(昭29)年当時と比べて下り本線と副本線の位置が入れ替わっています。
  •  洞爺駅の上り本線である1番線は岩見沢方への出発が可能となっています 。1978(昭53)年10月2日改正と1980(昭55)年10月1日改正時点の状況を確認すると、1番線に到着した上り列車の編成を分割して、その車両を始発下り列車とする場合に1番線から岩見沢方に出発していました。
  •  洞爺駅の貨物営業は1980(昭55)年5月に廃止されていますが、図には貨物線が残っています。
  •  北入江信号場は洞爺駅からRC方式によって遠隔制御される信号場です。 1964(昭39)年9月の信号場開設時に制定された遠隔制御に係る規程を参考として示します (その後の規程の改正によりこの配線略図の当時と取扱いが異なる点があるかと思います) 。
    「北入江信号場における運転取扱手続」(昭和39年9月19日 札鉄達甲第61号)

Memo

Ⅰ 北海道工業(株)という会社と海軍の工場

 1954(昭29)年の配線略図には北海道工業(株)の専用線が描かれています。「工業」といっても幅広いので具体的にどのような製品を扱う会社なのか調べてみたところ、操業間もない1946(昭21)年当時は銑鉄、鋳鉄、耐火煉瓦を製造し、その後銑鉄と鋳鉄からは撤退して1954年当時は耐火煉瓦を製造していた会社だったことが分かりました。
 調べていく中で興味をひかれたのは、北海道工業(株)の虻田製鋼所 *注1 は戦時中に造られた海軍の製鉄工場が関係していた点で、「虻田=海軍」というイメージがなかったので意外な印象を受けました。ということで、海軍の工場建設から北海道工業(株)の操業に至る経緯も掘り下げてみましたので、備忘録として残しておきます。
 *注1 北海道工業(株)の施設の名称は、1958(昭33)年頃?に「虻田製鋼所」から「虻田工場」に変わった模様 (様々な資料を確認したところでは、1958年頃を境とし
    て名称の記載に変化がみられる。なお、同年発行の [D]『JIS工場名簿 1958』1958年9月.日本規格協会.177頁では「虻田製鋼所」、 [D]『北海道商工要覧』
    1958年3月.北海道商工部.121頁では「虻田工場」になっている) 。


 まず、虻田に海軍の工場が建設された事情と終戦までの操業状況についてです。以下に2点の資料の記述を引用しますが、要約すると、戦時中、軍需物資である鉄の欠乏に対応するため、砂鉄が採れる噴火湾沿岸で室蘭に近いことなどの理由から虻田に工場を建設したものの、本格操業に至らぬうちに終戦を迎えたということになります。

  [D] 千藤三千造ほか『造艦技術の全貌』(わが軍事科学技術の真相と反省(Ⅰ)).1952年7月.興洋社.270頁~271頁より引用

  鉄源の窮迫に伴い、国としては戦時非常対策としてこれ等の所謂特殊製鉄法の助成を決意し、民間各方面への積極的援助を行う一
 方、海軍自体も兵器用特殊鋼の研究を目的として砂鉄よりの一貫作業を遂行することとなつた。その表現の一つとして虻田工廠が計
 画された。
  工場立地條件として砂鉄源の近い事、電力豊富なる事、還元剤の入手容易なる事及び冬期でも操業可能なる事及び早急建設可能な
 事等で北海道虻田及び静狩地区が選ばれた。その後静狩は都合で中止となり、虻田に全力を注いで噴火湾口周辺に多量堆積せる砂鉄
 原料を使用する事とした。  -中略-  而して昭和十八年の春着工し、十九年春より一部操業を開始した。第一期計画では棒鉄
 と海面鉄の製造に止め、第二期計画としては虻田工場にて製鉄と製鋼作業を一貫して鋼塊となし、之を日本製鋼所の室蘭工場に送つ
 て圧延して鉄薬莢粗材或は罐板材料とする。又これより生ずる鋼屑は虻田に返して製鋼原料とする。即ち虻田室蘭を一括して砂鉄よ
 り製品までの一貫作業を行い、以つて輸送量の軽減と重要兵器粗材の増産を計ることにした。
  これ等の計画は艦政本部に於ける決定であつたが、施設本部から防空上の見地から異議が出てその折衝に時日を要し、大した生産
 を挙げない内に終戦となつた。


  [D]『北の槌 -大湊海軍工作部記念誌- 』1991年5月.大湊海軍工作部記念誌刊行委員会.400頁~401頁より引用

  〝まぼろしの海軍製鉄所〟虻田
                     虻田分工場 大山正雄

  二度目の召集がきたのが、ジャワ (現在のインドネシヤ) のスラバヤ在の第一〇二海軍工作部から帰ってちょうど一年目の昭和十
 八年十月であった。
  戦況はいよいよきびしくなりつつあり、軍需物資の欠乏も目にみえて来た頃、海軍直営の製鉄所を北海道・虻田に建設することが
 計画された。
  この計画の担当が艦政本部臨時資材部であって、内浦湾 (噴火湾ともいう。) の豊富で良質 (末選五〇%) な砂鉄に目をつけ、室蘭
 本線の沿線で洞爺湖温泉の入口でもある、寒村虻田の地に白羽の矢がたったのである。
  室蘭にはご承知のとおり民営の日鉄輪西製鉄所、日本製鋼所が製鉄事業を行っている所であり、協力してもらうのに都合のよい所
 でもあった。
  私はこの〝海軍製鉄所〟(職制的には大湊海軍工作部虻田分工場) の要員として召集を受けたのである。
   -中略-
  ところで、工場の方は五千坪もある広い海岸沿いの土地に工場が建ち、数百人の従業員の大部分は、徴用工員で周辺の町村から多
 数集まっている。余り見受けることのないスマートな海軍士官の姿も現われて、虻田は一躍、〝海軍の町〟となり、虻田町長さんは
 大の海軍ファンとなり、誇らしげに海軍を宣伝していた。したがって、町の協力度も大変よかった。
   -中略-
  工場操業の方は、業界第一位の富山県にある日本海重工業から嘱託として森技師が派遣された。エルー式の十トン電気炉が設置さ
 れたにもかかわらず、一向に成果が上がらず、試験品の原鉄と海面鉄がやっと出炉した途端終戦を迎え、工場には銑鉄の塊が山積み
 されただけで、計画された室蘭の日鉄輪西、日本製鋼への製造、転送も実現しなかった。結局、陽の目をみない〝幻の虻田製鉄所〟
 に終わったわけである。
   -後略-


 次に、北海道工業(株)との関係をみてゆきます。同社は軍需省の要請を受けて1944(昭19)年12月19日に設立された会社で当初の社名は北海道重工業(株)といい (1945(昭20)年9月5日に改称) 、本社は札幌市にありました。設立当時の工場は東札幌にあり戦後になって虻田に工場を構えるようになったと読み取れる資料がある *注2 一方で、戦時中から虻田に工場があったという設立関係者の話もあります *注3 。どちらが正しいのか判断しかねますが、私としては、直接関わった人物が終戦からそれほどたっていない時期 (記憶が確かな時期) に述べた後者のほうが信ぴょう性が高いのかなという感触です。ただ、戦時中から虻田に北海道重工業(株)の工場があったとすると海軍の工場と併存していたことになり、両者はどのような関係 (作業分担) だったのかといった別の疑義が生じるのですが…。
 戦後についてはわりとハッキリしており、終戦に伴い閉鎖された海軍の工場は大蔵省に移管された後、北海道工業(株)が工場の使用許可を得て1946(昭21)年から操業を開始しています。
 *注2  [D] 虻田町史編集委員会 編『物語 虻田町史 第四巻 産業編』1986年5月.虻田町.361頁
 *注3  [D] 「終戦前後の思い出」『日本瓦斯協会誌』第8巻第7号.1955年.日本瓦斯協会.17頁に、旭川ガス社長・山田新氏の回顧として次の記述がある。「当時、私
    は海軍艦政本部の要請に基き、鉄鋼増産の事に専念 北海道重工業株式会社を興し、虻田町に工場を置き、国情に即して多忙の毎日を送つて居りました。」


 最後に海軍の工場建設から昭和20年代までの北海道工業(株)虻田製鋼所の操業状況を整理すると下表のとおりになります。上記で取り上げた資料のほかにも色々と確認しましたが、それらの内容は必ずしも一致せず、総合的に判断して整理した点があることを御承知おきください。



Ⅱ 工場と北入江信号場付近の空中写真

 「Memo Ⅰ」でみてきた海軍~北海道工業(株)の工場は虻田町の入江にありました。工場への専用線は虻田駅から2kmほど室蘭本線と並走して工場に至りますが、工場のすぐ近くには室蘭本線の北入江信号場が設置されていました。この信号場は戦時中の貨物輸送の強化のために建設され、終戦直前の1945(昭20)年8月1日に開設されたものの1948(昭23)年7月1日には廃止となります。3年弱しか存在しなかった短命な信号場でしたが、ちょうどこの間に撮影された空中写真がありますので工場への専用線の敷設状況とともに周辺の様子を見てみます。
 

【出典】国土地理院webサイト「地図・空中写真閲覧サービス」https://service.gsi.go.jp/map-photos/
 整理番号:USA コース番号:M586 写真番号:4 撮影年月日:1947(昭22)/10/20 ※一部加工

 専用線の変遷を地形図で追ってみると、1949(昭24)年資料修正の5万分1地形図「虻田」*注1 では上の写真で「専用線終端」と記した所まで線路が描かれていますが、1953(昭28)年修正測量の図 *注2 では「積卸場?」と記した辺りまで、1955(昭30)年測量の2万5千分1地形図「虻田」*注3 では更に短くなって「A」と記した地点までとなり、これより後の地形図では完全に姿を消しています。「専用線一覧」の掲載状況からしても、昭和30年代初めには役目を終えていたのではないでしょうか。
 *注1 5万分1地形図「虻田」1917年測図/1931年鉄道補入/1944年部分修正測図 (空中写真測図) /1949年資料修正 (行政区画・鉄道).1949年11月発行
 *注2 5万分1地形図「虻田」1917年測量/1953年修正測量.1956年11月発行

 *注3 2万5千分1地形図「虻田」1955年測量.1958年6月発行

 続いて、信号場と工場があった辺りを拡大してみてみます。



 線路敷が判別できる部分を色付けしています。専用線は二股になっている部分の中央付近で途切れているように見えるのものの、翌年撮影の写真ではつながっているように見えて定かではありません。加えて、専用線の線路敷にレールが敷かれていないようにも見えるのですが、これは確実に敷かれている室蘭本線の線路も同じような見た目なので判断しかねます。また、北入江信号場の部分は線路が1本のようにも見える一方で、安全側線の端部と思しき部分が認められるので2本の線路があったものとして色付けしています。以上のように自信のない点が多々あるので、イメージとして捉えていただければと思います。

 信号場について詳述すると、設置場所は岩見沢方に向かって10‰の上りこう配となっており、登坂する下り列車が停車した際のひき出し補助のために加速線を設けています。加速線は大きくカーブを切って長万部方の本線から離れていく線形ですが、これは地形の制約によるものではなく、直線上に位置する亜麻工場の敷地を避けて建設する必要から捻じ曲げたのではないかと想像します。また、信号場全体が曲線に位置しているため、加速線の進入に対応する下り第2場内信号機と加速線の出発信号機にはそれぞれに従属する中継信号機が設置されていました *注4 。なお、信号場の岩見沢方ではこう配によって隣りの専用線の線路とは高低差が生じていたはずです。
 *注4 札幌鉄道局「運転取扱心得細則」(昭和22年4月17日 札鉄達甲第57号).制定時.第116条による。

 さて、海側には屋根に迷彩塗装を施した大きな建物が散在しており、これらが海軍関係の施設だったことは間違いないでしょう。北海道工業(株)虻田製鋼所として稼働していた建物は特定できないものの、その後建て替えられた工場は写真の下のほうに位置しているので、線路終端付近の建物のどれかのような気がします。

16年後の1963(昭38)年の空中写真
迷彩屋根の建物はなくなり、周囲の状況は一変しています
北入江信号場は廃止されて加速線もなくなりました

【出典】国土地理院webサイト「地図・空中写真閲覧サービス」https://service.gsi.go.jp/map-photos/
 整理番号:MHO636X コース番号:C3 写真番号:2 撮影年月日:1963(昭38)/04/27 ※一部加工

 今度は遡って戦時中の1944(昭19)年10月撮影の空中写真です。
 工場への線路はこの時点で完成していたのか不明ですが、少なくとも工事が行われていたことは分かります。工場では試験品ができた段階で終戦を迎えているので、それまでに線路の使用実績があったとすれば原料の搬入に用いられたことと考えます。


【出典】国土地理院webサイト「地図・空中写真閲覧サービス」https://service.gsi.go.jp/map-photos/
 整理番号:91Q32 コース番号:C5 写真番号:80 撮影年月日:1944(昭19)/10/22 ※一部加工

 最後に今回のテーマから外れたことを少々。
 工場海側の道路沿いには虻田市街の北東にあった虻田鉱山の軌道が敷かれており、有珠近くの海岸に設けた積込場まで通じていました。鉱山は1947(昭22)年に休山になり、1955(昭30)年に再開という経過をたどっているので遅くとも1947年には使われなくなったと思いますが、この軌道についても調べてみると面白そうです。

Ⅲ 北入江仮乗降場の設置期間ほか

 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』850頁によると、北入江信号場では開設時から旅客乗降の取扱いをしていたようです。空中写真のとおり信号場に隣接して海軍の工場があり、先に引用した『北の槌 -大湊海軍工作部記念誌- 』には「数百人の従業員の大部分は、徴用工員で周辺の町村から多数集まっている」との記述があることから、こうした旅客の利便を考慮しての措置だったのかもしれません。
 さて、『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』では1948(昭23)年7月1日に信号場が廃止になった後も仮乗降場として存在し、1964(昭39)年9月30日に場所を変えて2代目北入江信号場が設置されるまで旅客乗降を継続したことになっていますが、この経歴には疑わしい点があります。

 下に示すのは仮乗降場 -当時の札幌鉄道管理局では臨時乗降場と称したようですが、ここでは仮乗降場と表記します- の停車時刻も掲載された札幌鉄道管理局の「列車運転時刻表」で、左は1954(昭29)年5月1日改正のもの、右は1956(昭31)年11月19日改正のものになります。前者には「(臨) 豊住」、「(臨) 北入江」及び「(臨) 崎守町」の3か所の仮乗降場が掲載されているのに対し、後者には「(臨) 北入江」の掲載がなく、この時点で北入江には仮乗降場が存在しなかったことが認められます。その下の列車ダイヤは1961(昭36)年10月1日改正のもので、「崎守町」の記載はある一方で「北入江」の記載はありません (同改正の「列車運転時刻表」も同じ状態。なお、豊住仮乗降場は1960(昭35)年10月に豊泉駅になっています) 。







 また、日本交通公社発行の市販の時刻表では、1956(昭31)年6月1日改正を反映した同年7月号から北入江仮乗降場の掲載がなくなっています (『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』941頁) 。豊住と崎守町については引き続き掲載されており、この時から上記「列車運転時刻表」等と同じ掲載状態になったことを踏まえると、北入江仮乗降場は1956年6月1日改正時に廃止されたというのが私の考えです。

 さて、最後は話題を変えて、北入江仮乗降場に停車していた旅客列車の運転取扱いについて考えてみたいと思います。具体的には北入江信号場廃止後、加速線が無い状態で上りこう配に停車する下り列車のひき出しに支障はなかったのか、という点の検討です。
 参考にしたのは同じく10‰のこう配上にあった豊泉駅の状況で、同駅では以下に示す札幌鉄道管理局の規定のとおり、加速線に着発するのは貨物列車に限定していました。旅客列車は加速線を使用せずともひき出し困難になることは通常なかったことがうかがえ、北入江仮乗降場においても同様だったのではないかと推定します。

 札幌鉄道管理局「運転取扱心得細則」(昭和25年4月17日 札鉄達甲第54号).1964年6月25日現在.第200条第10号